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〒519-4442 三重県熊野市神川町神上63
市指定文化財 史跡 神川町花知区
<神社社殿> <正門鳥居>
花知神社は神川町花知(はなじり)地区にあり、東西40m、南北44m、幅8mの土塁と深さ6mの空堀があります。この宮の氏神は、南朝時代の竹原八郎屋敷跡に建立されています。北側は断崖となって北山川を挟んで対岸に和歌山県北山村を臨んでいます。屋敷跡は南北朝時代の貴重な史跡として広く知られています。
牛頭(ごず)天王とは、北山川の激流に巣くう河童どもを追っ払う神のことで、少し行った下流の対岸、大沼の里にも牛頭天王をまつったところがあります。
「熊野市の文化財(熊野市教育委員会)」より
【竹原八郎宗矩(むねのり) 鎌倉-南北朝時代の武将】
元弘元年(1331)後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒すため挙兵したが、失敗に終わり隠岐島に流される。天皇の皇子である大塔宮護良親王(だいとうのみやもりよし(もりなが)しんのう)は熊野の地に逃れ、そのとき親王を自らの屋敷に迎え入れたと伝えられるのが竹原八郎で、その後親王は令旨(手紙)を全国に発して倒幕に奔走した。その結果鎌倉募府は滅亡し、建武の中興が始まる。
竹原八郎もその殊勲者の一人で、いち早く兵を挙げ伊勢方面に攻め入るなどのめざましい働きをしたと言われています。
※建武の中興
元弘3年=正慶2年(1333)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、天皇親政を復活。翌年建武と改元し公家一統の政治を図ったが足利尊氏の離反にあい、2年半で崩壊、天皇は吉野に移って南北朝時代となる。建武の新政。
大杉と雑木の森の中、鳥居をくぐると、屋敷跡中央に大塔宮並びに竹原八郎を祀る小祠があり、今は静かにたたずんでいました。目を閉じると北山川のせせらぎと、時折聞こえる小鳥のさえずりに非日常を感じ、しばし癒されました。