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〒519-4442 三重県熊野市神川町神上63
市指定文化財 史跡 神川町神上字殿浦
神川町神上(こうのうえ)の高台、殿浦(とのうら)の地に、「わが国写真界の三羽烏」の一人と称される田本研造の生家跡が残されています。
今は、広い敷地に家屋やその痕跡はなく、杉木立の中で屋敷跡をぐるりと囲む石垣だけが残されています。
田本研造は、天保2年(1831)神川村殿浦の地に生まれました。
※田本研造(1831~1912)
明治元年(1868)箱(函)館戦争のさなか、旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三を撮影し、建設が始まった札幌の町をはじめとする北海道開拓事業の記録写真を残す。
23歳の時、医学を志し長崎に赴き、医学や化学を学び、安政6年(1859)には函館に移り住む。ところが、右足に凍傷を負って*脱疽となり、ロシア医師ゼレンスキーの手術により一命をとりとめるも*隻脚となってしまう。
しかし、これが縁となって写真の道に進むことを決め、写真技術を習得すべく研究を始める。
慶応2年(1866)頃から写真師としての活動を始め、箱館戦争の際に撮られた洋装姿の土方歳三は、おそらく田本の撮影した写真の中でも最も有名なものであろう。
「発見!三重の歴史」 毎日新聞社津支局編より)
田本は足が不自由であったため、撮影には多くの弟子を伴った。井田孝吉、武村盛一、吉田久一など代表的な弟子であり、また郷里熊野からも田本の名声を聞きつけ、池田種之助や山口増一などが弟子入りした。
上野彦馬(長崎)、下岡蓮杖(下田)、田本研造(函館)の3人の先駆者は、「わが国写真界の三羽がらす」と称されている。上野彦馬、下岡蓮杖が商業写真中心であったのに対し、ドキュメンタリーの父といわれる田本研造の評価が近年ますます高くなっている。
田本は大正元年(1912)10月22日、81歳で函館に没したが、墓は函館湾を見下ろす立待岬の住吉共同墓地にある。
(「熊野市の文化財」熊野市教育委員会より)
※脱疽(ダッソ)
壊疽(エソ)ともいう。四肢の動静脈に炎症が起こり、そこに血栓が出来て内腔を
塞ぎ血液が流れなくなって、その末梢組織が壊死に陥り紫色や黒色に変色した状態。
※隻脚(セッキャク)
片方の脚を欠損した状態のこと。
高い石垣、玄関口の石段、そして広い敷地全体を見渡しながら、ふと立ち止まり、明治の時代に思いをはせると、往事の人の出入りと活気に満ちた暮らしぶりなど、当時の繁栄が偲ばれました。