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花の窟神社の版木







 花の窟神社の伝承によると、「樛屋(つがや)」という屋号は、代々宮司を務めた「森家」の屋号で花の窟神社の参拝記念にと、この版木で刷られた「花の窟木版画」を手渡していたようである。
 現在では、版木が傷んできているため版画は刷られていないが、複製品が参拝記念として販売されている。版画には、「日本書紀曰くイザナミノミコト火の神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故(かれ)、紀伊国の熊野の有馬村にりまつる。土俗(くにびと)この神の魂(みたま)を祭るには花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹(ふえ)幟旗を用て歌い舞いて祭る」の意が漢文で書かれている。
 その左の説明文には「花の岩屋の御祭はしも二月十月の二日の日縄もて旗をつくり千尋のみしめなゆいそえいかめしき巌の上より濱松のこずゑに引き延ばし神主をはじめ懸の奴祢男女等種々の花横山の如く備え奉れるなむ神代よりの風俗にはありける 是より十丁ばかり西の方に産田の社とて二神の鎮まり座す社ありすべては此地のさま万の書にみえたればもらしける」とあり、当時のお綱かけ神事の様子が書かれており、旧暦・新暦の違いはあるが、江戸時代から2月と10月の2日に祭りが執り行われていたことが判読できる。
 版木の製作にあたった画工・平安菱川廣隆(1808〜77)は、幕末から明治にかけての画家である。京都に生まれ、初め役者となるが、後に絵画を志し風俗画・大和絵・漢画などを描いて菱川清春とも名のった。和歌山に住んだが、明治10年(1877)に69歳で没した。菱川廣隆はほかに岩瀬廣隆や小野廣隆とも名のっている。嘉永年間(1848〜54)に発刊された『西国三十三所名所図会』のうち、『紀伊国牟婁郡名所図会』には、花の窟王子之窟有馬村産田神社と題して、版木の図柄とよく似た絵図が絵師・浦川公佐によって描かれている。

木本組全図







 「木本組全図」は、天保3年(1832)公儀の命により、紀ノ文三が描いたものであり、大きさは縦1m23.5cm、横2m59cmである。
 現在では、この絵図の特徴は、平地は黄色で表し、山地は緑色、稜線(尾根筋)は黒線で描き、さらに段彩式画法により標高に応じた色の濃度を変えて立体的に描いているところである。
 地図の画法にはケバ法と等高線画法がある。等高線画法は、19世紀末フランスで採用されたといわれているが、紀ノ文三が描いた絵図はそれ以前の手法によるもので、等高線画法のさきがけである。 これについて『三重県史』別編、絵図、地図に「本図の方法が画工紀ノ文三の独創によるものであるとしたら、日本では一、二を争う早い段階の段彩式地形描画法であり、世界でもトップグループに入るかもしれない」と、奈良国立文化財研究所測量研究室長(当時)・木全敬蔵氏の意見を記載している。
  紀ノ文三の経歴は不詳である。また、文三がどのような資料によって描いたかも不明であるが、海岸線、河川、山などは現在の地図とほとんど差がない。寛政12年(1800)江戸幕府は、伊能忠敬に日本全国の海岸測量を命じた。『西家文書測量御用留帳』によると、伊能忠敬が熊野へ来たのは文政2年(1819)6月29日とされていることから、このときの絵図を文三が利用したとも考えられる。

楯ヶ崎遠見番所船型図







 現在の所有者は、楯ケ崎遠見番所見張り役人を代々つとめてきた須野の浜田氏の子孫の方で、当船型図は江戸末期の文政の頃、異国船来航の時、船籍を確認するためにつくられたものである。 船型図の船種は、琉球船・唐船・オランダ船・ロシア船の4種である。ロシア船の説明文にイギリス船にも似ると記されているから、日本近海に出没していた当時の外国船は5ヶ国と考えられる。
 藩政期の日本近海に異国船が出没し始めると、寛永12年(1635)幕府は各藩に命じて、重要な岬に遠見番所を設置させた。藩は地元の地士(土地の有力者)を遠見番に任命し、海岸警備の任にあたらせた。 文政年間に入ると、ロシア商船の出没がはげしく、紀州藩は文政10年(1827)、尾鷲市の九木崎遠見番所へ、琉球船・オランダ船・南京船・唐船・ロシア船が記載された絵図1冊を与えている。しかし、遠見番が遠目鏡(望遠鏡)で見ても、遠い沖合を通行する異国船であるため識別は難儀で、異国船の発見報告は全て「船型図」によってなされた。 なお、浜田氏宅には、武具三種(突棒・刺股・袖がらみ)も伝わり、船型図とともに熊野市歴史民俗資料館に寄託保存されている。


花の窟の湯立釜







 湯立神事は、神前の大釜に湯をたぎらせ、巫女・神職が釜の中の湯に笹の葉をひたしては振り、自ら熱湯を体に浴び、また釜の周囲に振り撒きつつ、楽に合わせてこれを反復するうちに神がかりとなって託宣を述べる神事のことである。
 古代の盟神深湯(くがたち)の遺習とする説もある。すなわち、罪の有無を占う儀礼が拡大解釈され、祭に参加する者の穢を祓う目的にもなったとされる。若返りの若水の観念が含まれるというのである。また神意を問うために行うものもある。
 市内での湯立神事は、現在、波田須神社などで行われているが、以前は他の神社でも行われていたようで、江戸期の紀年銘を持つ湯立釜が花の窟神社をはじめ市内の他数ヵ所に存在する。
 いずれも鉄製鋳物で三本脚、形状は類似している。作者名は、「大工成川住」・「鋳師山口兵作」・「成川住加賀守」などとなっており、当時成川吹屋の先祖は、元和(1615〜1624)の頃、新宮城主浅野忠吉の家臣佐々木次郎左衛門により、築城工事の必要上加賀の国から招かれたという。
 鉄は腐食しやすいため長期保存は難しく、上記湯立釜はいずれも腐食の度合いはかなり高いようであるが、いわゆる刻銘のある民俗資料として価値がある。なかでも花の窟湯立釜は、紀年銘が安永5年(1776)と古いが、腐食程度は比較的軽く鋳された銘文も深くはっきりと残されている。


天狗吉久銘の槍







 「紀伊続風土記」新宮城下鍛冶の項に、「又相傳う文禄の末 矢根鍛冶三人あり 兄を権太といふ 神倉山に入りて丹倉山の近藤兵衛といふ天狗より矢根の鍛術を受け(丹倉山は西山郷赤倉村にあり)秀吉公に矢根を献す 天狗吉久是なり」とある。
 丹倉山の近藤兵衛については、現在その屋敷跡が「史跡熊野天狗鍛冶発祥地」として市指定文化財となっている。この丹倉天狗鍛冶より鍛法を受けたという新宮天狗鍛冶吉久は、文禄の頃、豊臣秀吉に度々矢根を献上した有名な鏃師で、余技に鍛刀鍛槍もしたと考えられている。
 この槍には銘があるものの作製年代は不明であるが、室町末期の作と推測され、刀匠天狗鍛冶作として希少価値が高い。
 なおこの槍は、新宮城主水野家に仕えた藩士といわれる、木本町の塩崎家に代々保存されていた。

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